3月11日の地震の時、またその後地震と津波の映像を見て、自分が何を感じ、何を想ったかは、今でも克明に覚えている。
覚えているけれど、それを書き留めて文章にすることは、二ヶ月以上経った今でも、できそうにない。
多くの方の生命が喪われ、たくさんの営みが失われ、損なわれたことに対する痛みや。
それらを悼む言葉を、紡ぎつなぎ止め残すことが、とても怖くて。
他にも、書けないことはたくさんある。
原発のこと。
今の東北地方のこと。
小さな同居人が、3月からずっと、(昨年、スキーデビューをした)裏磐梯の猫魔スキー場に行きたがっていること。
(昨年宿泊した裏磐梯猫魔ホテルは、現在被災者支援のため一般営業は休止中。今年8/1から一般営業再開とのこと)
もともと、私は現実逃避型の趣味に耽溺する傾向にあり。
常日頃、意識が現実から乖離している時間が長い。
地震から数週間は、長子が生まれる前後の一年間と同じくらい(週の半分くらいは出張先で昼夜を問わないカンヅメ作業、というような仕事に就いていたため。親になるに当たって「現実」について学び直す必要があったため)、ニュース漬けの毎日だった。
「現実を知らない」ということに、恐怖や不安を覚えなくなったのは、幾つぐらいの頃だろう。
80近い実家の母などは、今でもテレビ漬けの毎日(まあ、半分はフィクション系だけれど)な上に、(数ヶ月に一度纏め読みするので)旧聞になって久しい新聞も大事にしていたりするので、年齢的なものではなく、性格的なもの……なのだろう。
やはり、虚構に耽溺して現実を省みない大学生活を送ったのが主要因か。
その後勤めた会社でも、基本は内勤な上に日常生活とは疎遠な「お宙の片隅から地上に送られてくるモノ」を扱う、世情とは縁遠い世界だったし。
興味のないことには、目を向け(続け)られない人間なので。
ここ数年は、めっきりニュース番組やワイドショーも見なくなっていたのだけれど。
さすがに、2ヶ月前は連日の報道から目を逸らす気にもなれず。
お陰で、デジタル放送のまともな使い方も理解し、同居人が職場に新聞を持って行ってしまう毎日でも、主要ニュースの纏め読みができるようになった。
少しは現実にも目を向けよう、と、頑張ってみてはいる今日この頃。
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